一昨年の10月に、10年間連れ添った愛犬ミカミを亡くしました。
2ヶ月で我が家にやって来てくれてから、9年と半年くらいは一緒にいた完全なバディでした。
とくに最後の3年くらいは、ミカミが僕を思う気持ちが痛いほど伝わって来て、
彼を置いて夜出かけることなども控え、文字通り四六時中ミカミは僕の横にいてくれました。
彼が旅立った後は、どうしようもないような虚無感と、もっとああしてあげればよかった、
もっとこうしてあげればよかった、などめくるめく後悔と、一緒にいてくれて、僕のことを
深く愛してくれて本当にありがとう!といういたたまれないような気持ち、俗にいうペットロスに苛まれました。
道を歩いていても急に涙があふれ出たり、
「ミカミくん、最近いないけどどうしたの?」とか言われると対応できないほど気持ちが落ちたり。。
ペットロスは親が子供を亡くした時の悲しみに似ているそうですが、本当に辛かったです。
日にち薬、とはよく言ったもので、あんなに辛かったのが気がつくと少しずつ平常心に戻って来たこの頃ですが、
先日SNSで流れて来たこのフィードを見て無性に愛犬との生活が懐かしく、またもう一度一緒に生活したい!
と思ってしまいました。
ご覧になった方もいらっしゃると思いますが、よければご一読ください。
実際にアメリカであった隣人の犬殺し事件の裁判で語られた言葉です。
犬への賛辞
世の中で最高の友人だと思っていた人が、自分に牙を向き、敵になることがあります。
たくさんの愛情を持って育ててきた息子や娘が、親に対して不義理を働くことがあります。
厚い信頼を抱いていた一番近くにいる最愛の人が、裏切り者になることもあります。
それまで大事に持っていたお金だって、一番必要なときに限って、人の手から離れていきます。
それまで保ってきた名声だって、ちょっとした軽はずみな行動で失われることがあります。
成功しているときには、膝まづいて栄誉を称えてくれていた人が、失敗するや否や、真っ先に悪意のこもった石を投げつけてくることがあります。
さて、この欲にまみれた世界において完全に無私無欲で、決して人を見捨てず、決して恩知らずな行動を示さない唯一の友人がいます。
それは犬です。
栄えているときも貧しいときも、健康なときも病めるときも、犬は常に傍らにいてくれます。
犬は、主人のそばにいることができるのならば、冷たい地面の上で寝ることだって厭わないし、冷たい冬の風に吹かれたり、激しく吹きつける吹雪に晒されることにだって耐えてくれます。
犬は、たとえエサを持っていなくてもその手にキスをしてくれますし、世知辛い世の中でできた傷口を舐めてくれます。
主人がたとえ貧しくても、眠っている間は、まるで王子様を守るように見張りに付いてくれます。
友人が誰一人いなくなっても、犬だけはそばにいてくれます。
富が消え去り、名声が地に落ちても、まるで天空をめぐる太陽のように常に一定なのは、犬の愛なのです。
もし命運が主人を見放し、友人も家もない打ち捨てられた人間のようになったとしても、忠実な犬が唯一望むものは、命が尽きるまで主人のそばに付き添い、彼を危険や敵から守ることなのです。
そのうち死が主人を優しく抱擁し、忌の際がやってきて、冷たい地面に横たえられる時が来ます。
他の全ての友人は目をそらし、その場を立ち去るかもしれません。
しかし、彼の墓の横には常に、高貴な犬の姿があることでしょう。
頭を足の間に置き、悲しみと同時に用心深さをたたえた目を大きく見開いて。
死者に対してさえも忠実なもの、それが犬なのです。